寺法


東慶寺寺法の成立

 

東慶寺の旧記にはひとしく、時宗夫人が尼となり東慶寺を聞き、縁切寺法を創立したとして、

開山覚山和尚がその子執権貞時に願って、自分は出家の身で、女のことであるから、世のため人のためになることあまりできまいが、

女というものは不法の夫にも身をまかせ、つかえるのがあたりまえとされているので、時によると女のせまい心から、

ふとよこしまの思い立ちで自殺などするものがあって、ふびんであるから、そのような者は三年間当寺へ召し抱え、

何卒縁切りして身軽になれるという寺法をはじめ、貞時から勅許を仰いでこの縁切寺法が公許され、第五世後醍醐天皇

王女用堂尼は縁切女三ヶ年の寺勤めはふびんと出入三年二十四ヶ月とされた。

 

とある。これは江戸時代の文書でありもっと古い時代のものでこれを裏付けるような史料は見あたらない。

開山系図の覚山尼の条に「後宇多院ならびに鎌倉将軍 罪人御免許の勅書、御教書下賜」とある。鎌倉将軍惟康親王の関東御教書とか勅書とかあればおもしろいがそれはない。ただここに縁切ではなく罪人免許という文字が見えるのが興をそそる。先述のように明恵伝に敗軍の将兵が高山寺に逃入る話やその妻妾が多く駆入って尼弟子となったことがあるように、中世の社寺に治外法権があり、罪過ある者が逃れ入れば免許される慣習があり、東慶寺にも、幕府や朝廷の保護の下にその特権が強く行われていたといえよう。

 

大体、寺院はいわゆるアジール的性格があった。

アジールの原意は罪人、負債者をかくまった教会内の避難所、日本でも中世に高野山等に「遁科屋」というようなものがあって、罪科からのがれた者の避難所があった。江戸時代になると、それらの特権は認められなくなりこのアジール的性格を最も端的に示す「駆入寺」なる独特の語をもって呼ばれるのはこの東慶寺のみとなる。覚山尼の女人救済の「駆入寺」なる寺法の創始は広大な菩薩の行願によるものといえよう。それは華厳の写経と禅の実践の中から生まれ出た慈悲行である。

華厳経は維摩経、法華経等とならんで大乗経典の一、華厳家の言を以ってすれば、本経は法界円融、重々無尽、主伴具足、相即相入、無礙法門を演説し、諸経の源、諸乗の本といい、日出でてまず高山の頂を照らすがごとく諸経の最高のものとされ、事理無礙法界より一歩を進めて事々無礙法界の信解に入り、現実の世界を如実に許容する法理は、華厳哲学なる語を以てよばれるほどに、諸経典中の最高妙説の大乗経典である。華厳宗再興の明恵の遺訓に

 

我は後世を助からんとは申さず、ただ現世にあるべき様にて有らんと申すなり。

阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)という七字をたもつべし。

 

という有名なことはがある。華厳の写経をなし、華厳の法理に照らして覚山尼が当時の世の相(すがた)をながめたとき、はたして満足しえたであろうか。男女は平等であるべきが仏法での本来の相であろう。

禅ではどうか。円覚開山無学祖元は慧照という女人に示された法語に、「你是れ女人と雖ども、此性更に別無し」とある。

この仏性に男女の差別のないことを示された。また弟子の慧蓮尼への法語にも「仏性覚体、妙明円満、不問女人、不問男人」と、男女の平等を説いている。

覚山尼に明恵や無学、華厳や禅が強く影響して利他大乗の行願として女人救済の寺法が発現したといえよう。

覚山尼が時宗に死別して華厳写経に専念したころに霜月騒動がある。文永・弘安の二大国難はさておき、和田の合戦、二月騒動そしてまた霜月騒動と、戦乱相つづき、肉親相討つ修羅のちまた、輪廻のすがたを見る時、修禅の正眼と華厳の真読より、あるべき世界、仏国土の建設への菩薩行の悲願に燃え立たざるを得なかったであろう。しかも女身ゆえの非力、自らが女であるからせめて女人救済の寺としてこの東慶寺を独特な尼寺たらしめた。

文政年間の松ヶ岡東慶寺の川柳に「縁なき衆生を済度する松ヶ岡」というのがある。定中の覚山尼もこの一句を微笑をもって納受されるであろう。

 

四賀光子の覚山尼の讃歌に

流らふる大悲の海によばふこゑ

時をへだててなほたしかなり

 

と、この大悲願力から日本に唯一つの駆入寺か生まれ出たのであり、この寺が日本仏教史上、大いに語られねばならぬ所以である。