開山覚山尼は安達義景の
「吾妻鏡」にはこの日の条に、
天晴、午刻秋田城介義景妻、女子平産云々、号堀内殿者也。
と記録されている。
建長5年6月、堀内殿が満1歳にもならぬ前に父義景が死んだ。
弘長元年(1261)の4月23日に、時宗11歳堀内殿10歳で結婚、安達邸から時宗邸に移った。早婚であり近親結婚であるが、当時は珍しくない。
夫北条時宗が弘安7年(1284)4月4日に34歳の若さで亡くなる直前、夫婦はそろって出家し、夫人は無学祖元より潮音院殿覚山志道と安名された。
出家した覚山志道尼は時宗と死別の翌弘安8年(1285)に東慶寺を開創。
同年弘安8年11月には、頼朝以来の御家人と北条氏の得宗家の家臣である御内人とが対立した霜月騒動という大騒動があり、そこで安達家が滅亡してしまう。
覚山尼はたんに時宗公の菩提を弔うために尼になり、東慶寺を建てられたということではなく、戦乱の中、男たちの犠牲になった女を見て女人救済を思い立ったのではないだろうか。あるいは男女は平等であるのが本来の姿という仏法を実践せずにはいられなかったのだろうか。覚山尼の女人救済の「駆入寺」なる寺法の創始は広大な菩薩の行願によるもので、歴史上に『駆入寺』『縁切寺』として名を馳せることになる。