釈宗演

明治35年 順荘尼がなくなって東慶寺は尼寺としての歴史を閉じた。 明治38年春円覚寺派管長釈宗演しゃくそうえん禅師が管長を辞任されて東慶寺の住持となり、大正8年11月1日61歳でこの寺にて遷化され、円覚寺本山より東慶寺中興の称号を贈られた。 この宗演・大拙を通して駆込寺東慶寺は女性救済の尼寺とは又一変して世界的禅の発展の基地としての寺となった。 明治26年9月シカゴに万国宗教大会が開かれると、宗演は四人の日本仏教代表の団長として出席、『仏教伝通概論』のスピーチをした。その英文は当時参禅の居士大拙鈴木貞太郎が作製したもので、これは米国の雑誌に掲載された。大拙貞鈴木の英文として米国人の目にふれた最初のものである。 宗演はこの時、哲学者ポール・ケーラスと会い、夜ふくるまで談論し、ケーラスは大いに刺激されてTHE GOSPEL OF BUDDHAを著し、試刷を宗演に送ってきた。それを大拙が訳し、28年1月には『仏陀の福音』と題して刊行された。これが大拙の処女出版である。   宗演の遺志により 昭和17年 宗演門下の居士鈴木大拙は東慶寺境内裏山に「松ヶ岡文庫」を創立し、昭和53年、松ヶ岡宝蔵ができ、東慶寺の宝物が常設されるようになった。        

釈宗演略伝

宗演、号は洪岳こうがく窟号楞伽窟くつごうりょうがくつ、安政6年12月福井県若狭高浜一瀬家に生まれる。12歳にて同族一瀬家出身の釈越渓しゃくえっけいの弟子となり、妙心寺天授院僧堂、15歳建仁寺群玉林の俊崖に就学、19歳岡山曹源寺の儀山に参禅、明治11年20歳より円覚寺の蒼龍窟そうりゅうくつ洪川こうせんに参禅、25歳にてその蘊奥うんのうを尽くし 峨差多端古巌前 擲命深潭凌苦屈 一死再蘇竜子吟 嘔阿透徹九渕窟 と証明のを与えられ、さらに洪嶽こうがくの道号のじゅを与えられ、円覚塔頭仏日庵に住し、慶応義塾に学び、親しく福沢諭吉より洋学を学び、20年春卒業、山岡鉄舟や諭吉の資助、すすめによりセイロンに留学すること三年。この時の日記を『西遊日記』と題し毛筆で細々と記してある。