鈴木大拙

明治26年9月シカゴに万国宗教大会が聞かれると、宗演は四人の日本仏教代表の団長として出席、『仏教伝通概論』のスピーチをした。その英文は当時参禅の居士大拙鈴木貞太郎が作製したもので、これは米国の雑誌に掲載された。大拙貞鈴木の英文として米国人の目にふれた最初のものである。 明治30年に大拙は渡米し、在米十余年の後、世界のドクターT ・鈴木となる。ケーラス博士はドイツよりシカゴ在のラサー ルに移住し、オープンコートとかモニストという雑誌を刊行していた哲学者であるが、鈴木大拙をして世界的大拙にならしめるに大きな縁がある人である。ともかく鈴木貞太郎は、宗演とケーラスの紘搬により明治30年渡米され、ケーラスの助手となる。 大拙の一生においてその人とその学問を左右する大きな因縁はまず、円覚寺で洪川に参禅したことである。その動機は二十歳のとき母の死に遭ったことである。「死の一語吾を駆りて哲学に入らしめ、宗教に入らしめたり」と自ら宗演への書簡に認めている。洪川に参禅し、さらに宗演に師事し、さらにケーラスの縁で渡米されたことである。

 

 

 

松ヶ岡文庫と鈴木大拙

「松ヶ岡文庫」なる名は釈宗演の「賊後弓」と題した大正7年12月25日付の遺言書の中に出てくる。老師は松岡文庫、松岡宝蔵の建築費として三千円を用意してあった。鈴木大拙居士がアメリカより老師あての書簡の中に欧米にては大抵の都市に大なる書籍館の設けあれば、時の進歩に後る、の愚少なけれども、我日本に在りては東京にてすら完全の公共書庫あることなし、されば少し学問に志あるものは余財を抛ちて近刊の著書を参考に供せざるべからずとある。これは明治33年8月9日の書簡である。このあとに貧乏学者に文庫の必要なことが縷縷弁じてある。 老師の松岡文庫建設の遺志はこの書簡の影響もあると推量される。禅忠先師が住職してまもなく、大正12年の大震災で堂塔ことごとく倒潰、とても文庫や宝蔵どころでなく書院・本堂の復興も完成せぬ間に禅忠先師は遷化、井上禅定が住職となってのある日、大拙先生と松岡文庫建設の話が出て、場所は東慶寺裏山の中腹、畑と小松の林のあるあたりを寺で提供しよう、宅地造成、建築費用は自安居士安宅弥吉氏が受持ち図書は大拙先生所蔵のものを収蔵ということではじまった。 『鈴木大拙全集』の年譜によると昭和16年4月松ヶ岡文庫土木工事始る。19年3月文庫の書庫・閲覧室住宅完成20年12月財団法人松ヶ岡文庫設立許可、25年4月文庫増築工事成る。28年10月コーネリアス・クレーンの寄附にて文庫新書庫成る。35年12月出光佐三の寄附により新書庫新築、旧書庫の改築成る。

 

晩年の大拙

宗演去って30年の後、昭和24年に大拙は79歳の高齢を忘れて6月にはハワイ大学の東西哲学者会議に出席、9月にはハワイ大学で禅の講義、11月文化勲章授章、翌年はハワイよりアメリカ本土に渡り、ハーバード、プリンストン、コロンビア等の各大学で講義をされ、これよりほとんど毎年続けられ、28年には欧州各国、イギリス、スイス各地に旅行、ロンドンやパリで講演。翌29年ニューヨークに在住、7月には英・仏・独に講演、8月スイスよりアメリカに戻り、9月帰国、松ヶ岡文庫に落付く。これ以前も松ヶ岡文庫に時々来往されたが、これ以来文庫に永住されここで執筆三昧、時には外国からの来訪者と会見される。時には東慶寺の書院で臨済録の講義をされるという生活であった。 昭和30年1月朝日文化賞を受章、この年又アメリカに渡り、コロンビア大学続講、31年8月にはメキシコ大学に講演、32年7月又メキシコ、9月ニューヨーク、33年にはベルギー、イギリス、ポルトガル、スペイン、34年ハワイ、35年インド、39年6月94歳で又渡米、ニューヨーク、7月ハワイ大学の東西哲学者会議に出席、年譜をかいつまんでもこの驚くべき記録は、伝法度生四海中をさらにうけつぎ拡大したもので、昭和41年7月12日、95歳の生涯を閉じるまで仏法のための精進の生涯であった。 7月11日朝松ヶ岡文庫にて発病、翌朝東京聖路加病院にて没、14日東慶寺にて葬儀。