第二十世 天秀尼

天秀法泰尼は豊臣秀頼の息女、千姫との間の子ではなく成田氏五兵衛助直女との間の子である。元和元年(1615年)五月、大坂落城の後、秀頼の子八歳の国松は京都六条河原で斬られた。当寺の過去帳の二十三日のところに満世院殿雲山智清大童子とあるのはこの薄命の幼君であろう。七歳の妹は家康の命により当寺に入れられ、瓊山尼の付弟にされた。千姫の養女として寺入した。 霊牌の表には「当山二十世天秀泰大和尚」、裏には「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。 寛永十九年(1642年)に父秀頼法名崇陽寺秀山菩提のために天秀和尚が鋳造したと銘文のある雲版(鎌倉市文化財指定)がある。 天秀尼は入寺に際し家康から何か願いはないかと聞かれて旧例の寺法断絶なきょうと願ったと寺例書にある。「会津四十万石改易事件」に際し一身をかえりみず女人擁護の寺法を守ってその権利を主張した。この事件は東慶寺の特権が非常に強く認められるようになったことを裏付ける歴史的事件であり、一女人の身で寺法を守り、堀主水の妻の身を助けた天秀尼は、昭和五十五年「神奈川県百傑」に選ばれた。 天秀尼の墓は寺の後丘の中腹にある。歴代墓塔の中で一番大きな無縫塔である。側に台月院殿明玉宗鑑大姉と刻まれた宝篋印塔ほうきょういんとうがある。天秀和尚御局、正保二年九月二十三日と刻銘がある。大坂から付き従った侍者であろう。閉じ年にあとを追うように逝っている。当寺に千姫関係の書状が六通ある。東慶寺から笥やびわを送ったのに対する礼状やら、明暦三年(一六五七)世に振袖火事といわれた大火のあとの二月六日に天秀尼十三回忌の香奠の送り状やら千姫死去の訃状もある。秀頼の遺孤天秀尼の養母としての千姫をとおして松ヶ岡御所の格式は一段と高くなり、天秀尼は中興大和尚と称された。