鎌倉の半ば、三浦一族をほろぼして、北条・安達の天下となった頃、安達邸に1人の女の子が誕生した。安達義景を父に、北条政子の弟・時房の娘を母に持つ彼女は、堀内殿と名づけられ、10歳のときに1つ年上の時宗に輿入れをした。
18歳で執権となった時宗は、弘安7年(1284)に34歳で亡くなるまで、空前の国難である蒙古の来襲に心血を注いだ。その間、時宗夫妻は、父時頼の影響もあり禅への信仰を深めていく。あいつぐ戦乱に加え、天変地異や僧兵など、仏教界の腐敗の中で新しい鎌倉仏教に救いを見いだす者も増えてきたのか、宋・元の禅僧で日本に帰化する者も多くなった。建長寺・円覚寺・浄智寺などの禅寺が造営されたのもこの頃だった。時宗は臨終に先立ち、出家入道する。夫人も落髪付衣し、無学祖元から覚山志道と安名された。
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弘安8年(1285)覚山尼は、松岡山東慶寺を開創。本尊は釈迦如来。第5世用堂尼(後醍醐天皇の皇女)の入寺以後、松ヶ岡御所と称され、寺格の高い尼寺としてその名を馳せるようになった。
大坂夏の陣(1615年)で、家康は滅ぼした豊臣家の遺児の扱いに腐心する。秀頼の子どもではあっても、孫娘千姫の養女を殺すに忍びず、東慶寺に入山させることで、豊臣の家を断つことにした。
当時7歳だった第20世の天秀尼は、寺に預けられた際、家康から望みを聞かれ「開山以来の寺法が断絶することのないように」と願い出て許された。これは、江戸時代を通して東慶寺が寺法を行使する上で大きな効力となった。
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